この世は概念と観念を通して見ている [気付き]
オギャーと生まれた頃は「まっさら」な状態で、観念はおろか何の概念もない。何も知らないし何の判断もせずに全てが新鮮です。
概念等はまず親に教えられ、その周囲の人達によって「自分」というものが観念によって形成されていく。
これは良いよ、あれはダメだよ。
これは安全だ、あれは危険だ。
これはこういうもの、あれはああいうもの
これらは全て観念です。言語も人が作った概念でありツールです。
喜怒哀楽は全て人が作った観念の上で成立していることがほとんどです。
同じ出来事でも、Aさんは普通に見えますが、Bさんは異常に見えます。Cさんは楽しいように見えたり、Dさんは何とも思いません。
つまり、A・B・C・Dさんのそれぞれ持っている観念によって、それぞれ見え方や感じ方が違ってくるのです。
ですから、それぞれ持っている観念を通して世界を見ていると言えるのではないでしょうか。
自分だけのオリジナルの世界を観念を通して見ているというわけです。
人生、山あり谷ありという観念を持っていれば、そのように世界は見えるしそう起こっているように感じます。
子供頃のあまり考えていない時の方が、とても楽しく感じたり、純粋に想うことが出来るということは、それだけ観念が少ないということです。
大人が小さい子供達に純粋さを見るのは、その子供たちの観念が少なく純粋に近い状態であることを知っているからです。
不要な観念をぺたぺたくっつけて生きているのが現状ですが、それが普通だと思っていると、まんまと自分が持っている観念の通りこの世界を見ることになります。
不要な観念は消す必要もありませんが、気付くことによって消えていきます(意にとめなくなったり)。
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