慣れ親しんでいる自分とは観念である [気付き]
前回の分と併せてお読みください。
以前も話したことですが、これが大事だ!!とかこれだけは譲れない!!とかこれは私のだから!!等、自分にとって愛着のような執着のようなものがあります。これは「自分」というものを形成する要素として、*観念が生き生きする場なのです。
恋人に愛着を持ち、金品に愛着を持ち、地位や名誉に愛着を持ち、我が家に愛着を持ち、愛着と思われるものにしがみつくと、それが自分にとってのモノサシになり幸せになるための必須条件だったり、自己価値をそれらに見出してしまうのです。
そうなると、同時に失う不安や恐怖がもたげてくるため、苦しんだりするわけです。
幸せという基準を自ら設け、幸せになりやがて不幸になる。この場合の幸せは不幸の始まりなのです。つまり、幸せになるための原動力として不幸が必要であり、不足が根っ子にあるのです。
しかし、これらは全て*観念がなせる業であり、自分というモノサシも基準も全て*観念なのです。
この現象界は変化のサイクルですから、二元性である「幸・不幸」は状況によって入れ替わるのです。
自分というモノサシ(*観念)は通用せず、それを無理に押し通そうとするため苦しいのです。
*本質を採用すると平安でいられます。状況によって惑わされることはありません。
自分というモノサシを捨てた時、辛かった状況が改善されたり、物事がスムーズに運んだりすることが多々あります。
これが「今に在る」*本質を採用するということです。
自分というモノサシは、今まで慣れ親しんできた自分であり*観念です。
色々なことは気付けるようになったが、このような自己価値が高いものほど盲点のようになっています。
しかし、それは気付いている自分によって既に知っているのです。いずれは気付きが起こり、あっけないほどそのモノサシと決別出来るでしょう。
※文中に出てくる「*」は、言葉解説のページをご覧ください。
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