意識と気付き [気付き]
目を瞑ると景色は見えませんが、存在は感じますよね。
景色が見えなくても存在を感じることが出来るのは、なぜなのでしょうか。
それは人の五感があるからだよ
それは脳が記憶しているからだよ
確かにそうですね。
五感あると分かるのは、なぜなのでしょうか。
脳が記憶していると分かるのは、なぜなのでしょうか。
突き詰めていくと、分からなくなります。
しかし、分からなくなることすら分かっているのは、なぜなのでしょうか。
デカルトの「我思う故に我あり」という言葉があります。
以下はwikiからの転載です。
我思う,故に我あり【われおもう,ゆえにわれあり】
ラテン語〈コギト・エルゴ・スムCogito,ergo sum.〉の訳。デカルトが方法的懐疑の末に到達した哲学の根本原理。あらゆるものは疑えるとしても,かく疑い考える我の存在は疑えない。
転載の訳が正しいかどうかは別として、色々疑問に思っても、疑問に思うことを見ている意識が自分に存在します。自分に存在するというか、意識そのものというか。
この「我」さえ意識からすると「我ではない」のです。意識そのものです。
意識は「神」・「本質」・「もう一人の自分」・「宇宙」、と呼び方はなんでも良いのですが、私達は意識そのものなのです。
何が起ころうとも、意識そのものですから常に「静寂・安心・安全・愛・幸せ・嬉しい・楽しい」のです。
思考では意識をとらえられません。意識は常に身近にあって、その意識を忘れているのが現状です。
現状は無意識に生きている状態で、いつも同じことを繰り返してしまいます。
気付きはこの無意識から意識に変えるものです。
無意識とは今まで生きてきて身に着いた観念達のことです。
日々生きていると同じような出来事が繰り返されることがあると思いますが、それは自分が持っている観念による反応です。この観念に気付きましょう、ということです。
気付いたらそれを是正するとか身構えなくても良いです。ただ淡々と気付けば良いだけです。
次第に意識というものが体感として分かってきます。
意識とは、眼鏡どこいった?と探していると、ふと、眼鏡は自分の頭の方に移動しておいたのに気付くくらい身近なものです。すぐそこにあるものが見えない盲点というか。
ですので、これらは大事(おおごと)ではありません。
意識は常に自分と共に存在しているのです。
え?私?
私は私というものが存在しないので、たまごかけご飯が私であって意識そのものです。
たまごかけご飯即私。
我思う故にたまごかけご飯あり。
色即是空、空即是色です。
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