純粋な動機は本質である [気付き]
このブログを書くにあたり、私自身は何か意図して書いているというより、ふっと意識に上がってきたことを書いている感じで、それが書きたくなって書いています。
ノルマがあって「~しなければならない」というより、「~したいからする」は純粋な動機で前に進みやすいことは確かです。
しかし、*観念が嫌だと思っていること、例えば「~しなければならない」ということも、*観念を外せば制限がなくなるため、「ま、やってみようかな」にはなって、やってみると別に嫌というほどでもなかった。ということも多々出てくると思います。
それだけ*観念によって条件付けを強い、制限をかけてこの世を経験しようとしていたということです。制限を外すことでこの世がシンプルになり楽になります。シンプルになると「~したいからする」になります。言葉で表現するとそうですが、どちらかと言えば流れに乗っている感じですね。流れに乗ると*観念ではネガティブに思うことも出てきますが、これらも含めて完璧に進んで行ったんだなと後で気付くでしょう。
制限を外すと言っても、気付いている状態、即ち*本質として在るだけですね。
※文中に出てくる「*」は、言葉解説のページをご覧ください。
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