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チョココアの体験 [気付き]

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雑談よりになります。
小さい頃から大人の「わざとらしさ」に違和感があり、どこか一線を越えてはいけないものがあるような気がしてなりませんでした。
知識が増えていくと、理性というよりは*観念で感性をや感受性をねじ伏せていったように思います。
ある時は誰もがあやつり人形のように、空から見えない糸が下がっていて、みんなこの糸に操られているんだ等と思ったこともあります。それほど違和感があったのですね。

大きくなるにつれ、*観念に生きることになりますが、たまに違和感が芽を出してくるのです。知的好奇心はある方で、その違和感の謎を解き明かしたい欲求に駆られては、どれだけ考えても答えが出ませんでした。
大人に成るほど知識が蓄えられ、知的欲求の塊と化し、宗教の類やそれに従事する人達を嫌悪し、科学的根拠しか信じなくなったほどの私ですが、違和感は相変わらず出てきては、これはなんだと考えさせられ、やはり答えも出ませんでした。

科学的根拠や理詰めで物事を考える現実主義者の私のこれら*観念が打ち砕かれたのは、311の津波と原発事故があった後でした。
自分自身では頭が悪い方ではないとう自負と他者からの評価もあり、自他ともに認める「お役にたつ人」でした。しかし、311の時ほど自分の無力さを痛感させられたことはありませんでした。
原発の仕組みを調べたり、元原発従事者や管理者がどのようなことをしていたか等を調べ、また、その筋の教授の補佐をかって出て、少しでも福島の人達の力になればという思いでぐるぐるしたり。
放射線で苦しむ子供達を救いたい、ヒーラーとなって白血病や放射線によって何らかの病気になる人達を助けたいと思う一方、そんな力もなく、ただただ毎日のネガティブなニュースに翻弄され、仕事も出来なくなるほど引きこもってしまいました。

ある日のテレビでゴールデンウィーク前になる頃、福島の避難者の女性の方がインタビューで、
「みなさんゴールデンウィークは楽しんでください。私達のことを考えてくださることは嬉しいですが、私達はそこまで落ちぶれてはいません。どうか楽しんでください。」
意訳ですが、こう仰いました。

この時に奈良の大仏くらいの巨大な何かの拳が私の脳天を実際に直撃させるくらいに「しっかりしろ!!」と私の*観念を衝撃と共に打ち砕いていきました。
物理的に奈良の大仏さんが拳を振り下ろして脳天に直撃したほどの衝撃があったのです。そんなことがあると即死ですが、確かに見えて聞こえて感じたのです。

それからは自分でも驚くほど世界が輝いていて、何を見ても愛しく感じ、全てが自分だと理屈ではなく、ただそうで在ることに浸り、部屋から廊下に出ても全てが私であり廊下であり空間であり、トイレの壁が愛しくて脳内に出てくるイメージさえも「知っているし私そのもの」でした。
宇宙即我というのも言葉で書くと壮大な感じがして違和感は残るのですが、全てが私であり私は溶けて全てそのものだと分かるのですね。
そもそも「私」と表現することさえ違和感でしかなく、かといって相応しい表現方法がありません。

私チョココアがシンプルに楽になったのは、やはり*観念に生きなくなったからです。
*観念は自己価値観の塊みたいなものですから、どうしても「私」というリアリティが伴いますが、まやかしみたいなものです。
ですから、「まっさら」や「*観念から離れて眺める」ということが最初は体感もしっくり来なくても、折に触れてやっていると気付きが起こってきます。体感もしていくことになります。

チョココア即卵かけご飯というのは、冗談ではなく本当のことなのです。笑


※文中に出てくる「*」は、言葉解説のページをご覧ください。

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タグ:観念
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