在る自由さ [気付き]
▲クリックで大きくなります。写真は富山市三熊49-4 「富山市自然活用村 富山市天文台」の道中にある(※下で説明)
田尻池に行く道中、「富山市天文台」と書かれた看板を発見し、田尻池でカモちゃん達をひとしきりカメラに収めてから、天文台に向かいました。
ダムと駐車場があり、どうやら天文台までは徒歩で行く必要があるらしいことが分かり、距離にして800メートル、大した距離ではないと値踏みしつつも*観念は「ちょっと遠いかも」と田舎特有の車社会における「少しの距離でも車で移動」が習慣的になっている私にとってはこのような反応が起こるのです。笑
駐車場に車を停めた際にその辺りの風景が上の写真になります。
天文台はドーム型の天候が良ければ開閉する形式で、巨大な望遠鏡は360度回転し、ドームの壁も回転するので東西南北遮蔽物なく観測と撮影が可能です。夜の観測する時間帯でなかったため、天体や星々を見ることは出来ませんでしたが、施設の案内の方は毎日来るだろうと思われるお客様に対し、親切丁寧に接してくださっていると思うと頭が下がる思いです。
さて、上の写真ですが向かって赤い実をつけた木と、右には葉っぱが枯れた木が写っていますがどちらも在りのままの姿を表しています。赤い実がきれいだとか枯れた葉っぱは見るに堪えないとか、そのようなことは一切ありません。
写真に写っている両者は一体であり、分離はしていません。等価です。
昨日の続きではありませんが、
美しい・不細工
といったものは分離にすぎません。*観念ですね。
どちらも在りのままなのですから、在りのままを眺めるだけです。そして、赤い実を選択するのか、枯れた葉っぱを選択するかは自由です。在る自由さとは形のあるものではなく、意識がそうだということです。
※文中に出てくる「*」は、言葉解説のページをご覧ください。
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